東京家庭裁判所 昭和33年(家)6005号 審判 1958年6月09日
申立人 山内ユキ(仮名) 外二名
主文
本件申立を却下する。
理由
本件申立人の申立は別紙の通りである。
仍て本件申立の適否について検討するに、相続放棄或は承認の取消については、夫々放棄・承認が為された相手方になされるべきであり、従つて相続放棄の取消は相続放棄の申述に準じて家庭裁判所に対して為されるべきであるというのが通説及び下級裁判所の裁判例の説くところである。しかし乍ら右の見解に対しては遽に賛同しがたいものがある。
その理由の一として新民法と共に施行せられた家事審判法中において相続放棄及び限定承認の申述については、これを甲類審判事項とする旨の規定を設けたに拘らず(旧民法当時には特に相続放棄の申述の受理という裁判形式の規定は非訟事件手続法にも置いてなかつた)相続放棄の取消については、家庭裁判所における手続規定を設けなかつたことは、新法施行が急がれたため、こうした技術的部面に関する規定の検討が十分になされなかつたということがあつたとしても、尚法の解釈としては、相続放棄の取消は家庭裁判所の審判事項としなかつたものと解する外はない。
その二は相続放棄の取消についての民法の規定の建前についててである。すなわち相続は一般に相続利益の享有を意味し、従つて特段の事由のない限り相続人が相続利益を放棄するということは稀有であろうから、相続法は相続の単純承認を原則とする建前をとつている、しかし相続財産が債務超過のときもあるので、こうした場合に相続人が相続による債務の負担等の損失、不利益を免れることができることとしたのが相続放棄、限定承認の規定である。それであるから相続人が相続放棄をしても、相続財産について民法九二一条三号所定の不正利益を得る等の所為があつたときには、相続放棄者に相続放棄の利益を享有せしめる必要がないので、相続放棄の取消をまたず、当然に単純承認をしたものとみなされるものとしたのである、この規定趣旨は勿論相続債権者保護のためのものであり、従つて次順位又は同順位の他の共同相続人が相続の承認をしたときには、法定単純承認の効果を生ぜしめないものとしたのであろうが、何れにしても相続の放棄は相続債務負担等不利益のある場合を前提としているものである。
そのため若し相続放棄者が相続放棄の効果を受けたくないとすれば、他に相続を承認をした相続人のない限り相続財産の隠匿その他相続放棄者の自由な一方的行為によつて容易にできることであり、且その単純承認とみなされる法的効果は相続権者側から主張できるだけでなく、相続放棄者自身も、その主張ができること民法九二一条の規定に「単純承認をしたものとみなす」とある点より明である、叙上のように相続放棄の制度は相続財産が債務超過の場合を予定して設けられたものであるので、法はこれについて特別の要件を定める必要がないとしたものである。このことは限定承認を取消して単純承認をする場合についても謂えることである(尤も限定承認を取消して相続放棄をするについては、相続放棄の申述という要式手続を必要とする)。
ところが相続利益があるのにこれを放棄する特段の場合がある、それは債務超過と誤解して相続放棄をしたのに、その実、債務超過でなく相続すべき積極財産のあつた場合(普通はこうした場合を予想して限定承認の制度があるのであるから限定承認の方法に出るであろう)とか、或は共同相続人間の遺産分割の方法とか、又は扶養協議の内容実現の方法とか、更には家的意識による等その他種々の事情で、相続人の一人乃至数人に遺産を取得せしめるため、爾余の相続人が相続を放棄する例がそれであり、本件申立人等の場合も、その例に該るところである。こうした場合に、その放棄行為に民法総則編或は親族編所定の取消原因を包含する瑕疵があれば、その放棄によつて失つた相続利益を回復せしめる必要があり、そうしてその取消については、放棄の取消の結果、次順位相続人、又は他の共同相続人がそれだけ不利益を蒙ることになるのであるから、これらの相続人に対して取消の意思表示をするのが順当であり、又それを以て足るのであつて、家庭裁判所に対して取消意思を表示することなどは、相続法が単純承認を原則としている点に鑑み、相続債権者に対する関係においても、必要のないところである(後述理由その三参照)。そうしてその取消の効果について争のある場合には、訴訟判決によりそれを確定すればよいのである。本件申立人等もその点を意識して他の共同相続人に対して取消の意思を表明したわけである。殊に本件のように他の共同相続人に遺産を取得させるための相続放棄については、相続放棄の前提となつている遺産分割協議或は扶養協議等の契約があるのが普通であるから、これら契約に取消原因のある限り、それを理由として前提契約を取消せばよいのである。
その三として審判手続の面から考えても、家庭裁判所は相続放棄の取消を実質的に審理すべきでない。すなわち家庭裁判所における相続放棄の申述受理の審判は、その審理手続において、その申述は真意に基くものであるか、適法の期間内に申述がなされたものであるか、更には法定単純承認該当行為はなかつたかなどについて十分な審理をつくしても、相続放棄申述受理の審判は相続放棄の効果を確定するものではなく、その申述のあつたことを公証するにすぎないものであるから、いきおいその審理審判の程度は、その申述が相続放棄申述の形式を有し、且相続人と称する者が、法定の期間内に相続放棄をするものであるという外形をそなえているか否かの程度の形式的審理に止まることになり、又それで足るわけである。ただ現実には家庭裁判所という司法機関の公証であるだけに右程度の表見的、形式的審査に止まらず、一応その実質についてもある程度の審理がなされており、従つて申述自体によつても、法定期間徒過の申述であることが明に認められる場合とか、或は相続権のない者の相続放棄の申述であることが容易に判定できるものについては、相続放棄の外形をそなえていても、その申述は受理されていない模様である。この審理手続に関して最高裁判所事務当局の回答その他において相続放棄が真意に基くものであるか否かを調査審理すべきであるとのことが云われているが、それは、実質的審理の程度の一標準を示したものにすぎないのであつて、その審理はそれだけに限るものではなく、これと共に法定期間内の申述であるか否か、単純承認とみなされる行為がなかつたか否かなどについての実質的調査の上受理審判のなされることは家庭裁判所の審判(公証)に一層の信憑力を生ぜしめる所以である。しかしながら、それらの実質的審理は申述人の利益保護のための行政的措置の程度にとどめるべきであつて(例えば書類の追完、或は任意取下の慫慂)、それらの点に欠けるところがあるとして、その申述を却下すべきでない。蓋し家庭裁判所の相続放棄申述受理の審判手続において、それが実質調査の上、その申述が真意に基かぬなどその他の理由にて相続放棄の申述を却下するときには、相続放棄者の相続放棄の効果発生についての権利関係の確認を求める公開の法廷における裁判を受ける権利を、その前提において奪うという不当な結果になるからである。叙上のように家庭裁判所における相続放棄申述受理の審判においては、その申述の表見的事実の調査審理で足り、深く実質的調査審理をしなければならぬものでないから、相続放棄の申述に取消原因に該当する瑕疵があつても、それが必ずしも審理の対象とならぬこと、相続放棄の申述に際し、既に放棄申述人に単純承認とみなされる行為があつたか否かが、審理の対象とせられていないのと同様である。これに加えるに仮りに家庭裁判所の審判手続において相続放棄の取消事由があると判定して、その相続放棄を取消しても、右の取消審判は終局的に相続放棄取消の効果を確定するものでないこと、相続放棄申述受理の審判の効力のそれと同一であるから、家庭裁判所に対して取消権確認を求める趣旨にてなされる相続放棄の取消申立は意味のないものである。
その四として家庭裁判所が相続放棄の取消を形式的にも審理すべきでない。換言すれば相続放棄取消の申立のあつたことの公証の意味の審理審判も為すべきでない。即ち前述のように家庭裁判所の審判において実質的に相続放棄の取消について審理審判できぬとすれば、相続放棄の申述受理の審判と同様に取消の申立のあつたことの公証の意味における審判はなさるべきでないかとの疑問が生ずる。それは相続放棄の申述受理の審判は、それによつて一応外形的に法律関係を明示する効果(即ち一応の証明)が生ずるから、それが一応外形的法律関係の明示された効果を取消すということ(即ち前になされた証明を取消すということ)は考えられないことではないからである。
しかしながら、相続放棄申述受理審判により公証された相続放棄の申述のあつたという事実は厳然とした客観的事実であつて、この事実は取消の対象となるものではない。取消の対象となるのは、その法的効果であるところ、家事審判手続は相続放棄の法的効果を確定するものでないこと前述したところであるから、若し相続放棄の取消審判ということが許されるとすれば、それは相続放棄の取消申立のあつたことを公証する意味のものにすぎないものである。しかしながら、その結果は、一は相続放棄のあつたことの公証と、他はそれの取消の申立があつたという公証と二つの公証が生じ、その結果一層公証関係を不明瞭複雑にするものであるから、こうした公証は家事審判法の予想するところではない。
右の次第であるから、申立人等がその相続放棄をなしたのは、共同相続人小島シゲの詐欺に基くものであるからとして家庭裁判所に対して相続放棄の取消を求める本件申立は理由がないから、これを却下すべきものとする。
次に本件申立を家事審判法において準用される非訟事件手続法一九条による、先になされた相続放棄申述受理審判の取消変更についての職権発動を求める申立であると解して検討を試みるも、相続放棄申述受理の審判は、単に相続放棄の申述のあつたことを公証するにすぎないものであり、従つて、仮りに申立人等の云うように、同人等の申述行為に瑕疵があつたとしても、先になされた申述受理の審判は取消変更される限りでないこと、前説示の通りであるから、前になされた申立人等の申述に係る相続放棄申述受理の審判に不当不法の廉はない。
以上のに事由に基き、主文の通り審判する。(家事審判官村崎満)
別紙
申立の趣旨
申立人等三名が昭和三十年二月十六日御庁に為した遺産相続放棄の申述を民法第九六条に基き之が意思表示を昭和三十三年四月二十五日取消しましたので御審判を求めます。
事件の実状
一、昭和二十九年十一月二十日申立人等の実兄である小山勘一が突然外出先で急死しその弟妹である左記の者が遺産相続人となりました。
弟 小山長二 明治十六年○月二日生 昭和三十二年十月十一日死亡
妹 小島シゲ 明治十九年○月十日生 相手方
弟 小山富蔵 明治二十一年○月十五日生 申立人
妹 田島ナミ 明治二十五年○月十四日生 申立人
妹 山内ユキ 明治二十九年八月二日生 申立人
二、被相続人の遺産は次の通りであります。
東京都豊島区○○○○丁目○○○○番地の二
家屋番号同町九七六番の二
一、木造板葺平家建居宅 一棟 建坪 七坪七合五勺
同所同番地ノ四
一、宅地 三〇坪 五合六勺
同所同番地
家屋番号同町甲三四二七番
一、木造瓦葺二階建店舗 一棟 建坪 一六坪二合五勺
二階 七坪五合
三、ところが、被相続人小山勘一は昭和二十一年春頃より相続人小山富蔵の四男である小山源四郎を養子として迎えるべく引取り、被相続人の家業(八百屋)を引継がせて来たのであるが被相続人が小山源四郎を戸籍上に養子縁組の届出を怠つたまま死亡してしまつたので相手方小島シゲ及び亡小山長二の提案により相続人五名で親族会議を開き被相続人の意思を推測し遺産の全部を小山源四郎に相続させるべく種々検討した結果、相続人小山長二に子が無いので一応小山長二一人が被相続人の遺産を相続し他の相続人全員が相続放棄をすれば小山長二が小山源四郎を養子とすることにより将来小山長二の死亡により小山源四郎が遺産を全部承継し被相続人の遺志の通り家業を続けられるし、又小山長二も病身であるからこれも扶養出来ると言う結論が出でて小山長二は昭和三十年九月二十三日小山源四郎及びその妻小山和子を養子として縁組の届出を為し、申立人等は相続放棄の手続を相手方小島シゲに一任致しました。
四、ところが昭和三十二年十月十一日小山長二が死亡するに及んで申立人等は小山源四郎と相手方小島シゲの両名が被相続人小山勘一の遺産を売却せんとしている事実を聞知したので、これが調査をしたところ意外にも前記物件は孰れも亡小山長二と相手方小島シゲの両名が相続を原因としてその共有登記を為している事実を発見致しました。
五、申立人等は相手方小島シゲの提案で遺産の全部を小山源四郎に取得させることを条件でそれぞれ被相続人亡小山勘一に対する遺産相続を放棄した次第であるが相手方小島シゲ自ら放棄しないばかりか最近申立人等が御庁に於て遺産相続放棄申述書を閲覧したところ意外にも小山長二まで相続放棄をなしている事実を発見した次第である。
六、以上の理由で明白な通り相手方小島シゲが自己の利得を図らんとして申立人等を欺罔し恰も自分も相続放棄をするようによそおい相手方小島シゲに申立人等の相続放棄の手続を一任せしめたものであり従つて申立人等は相手方小島シゲの詐欺により相続放棄をしたことがわかつたので申立人等は民法第九六条によりこれが取消を致しますので、御審判を求める次第であります。
七、尚相手方小島シゲは相続財産の内既に一軒の家を自己の娘に贈与して居り最近他の物件を売却中でありますので申立人等は東京地方裁判所民事九部に処分禁止の仮処分申請の手続中であります。